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塔の幻 -- 浅草十二階
はじめに
| 僕は明治の浅草どころか昭和の浅草についても全く知りません。 また現在も浅草にはあまり縁がありません。 時々憂さ晴らしに散歩する程度です。 そのため内容的には付け焼刃の知識なのでいろいろ混乱があると思います。 誤解とか勘違いもあると思いますので、ご了解ください。 また勝手な思い込みによるDQNな記述も多いと思いますが勘弁してください。 またどうしても掲載したい図版や文章は引用元を明らかにして、最小限一部を引用さして頂きました。もし不都合がありましたらご一報ください。 すぐ削除いたします。 ※追記 画像を細馬宏通先生のサイト「浅草十二階計画」のものを多数使用させて頂いたため、先生にメールしましたところ、早速、快く了解して頂けました。また浅草12階(汗)は浅草十二階でないと感じが出ないとのご指導さえ頂きました。もちろんすぐに直しました。細馬先生、本当にありがとうございました。
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「浅草十二階計画」の図版 上の図版は絵葉書です。1923年、関東大震災で崩れ落ちる浅草十二階です。この震災で浅草十二階は8階部分から崩壊したそうです。 浅草十二階は1890年に建築されたそうですから33年の命でした。 |
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| 出発まで。 |
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浅草十二階(凌雲閣)出発 発起人は越後長岡出身の貿易商 福原庄七。 初代社長は浅草公園五区(奥山)の写真師 江崎礼二。 江崎礼二は建設途中の十二階を撮影している。 設計顧問はW.K.バルトン。 施工は和泉孝次郎が5万5千円で請け負い、10ヶ月で完成の説あり。 十二階開業直前直後の新聞記事およびチラシ。 浅草十二階には日本初の7馬力の電動機で動くエレベーターがありました。 このエレベーターは日本初の電気車を製作した藤岡市助が設計設置(当時、東京電燈株式会社技師長。後に東芝の前身白熱舎創業者のひとり)。 東京電燈株式会社での最初の電燈以外の電力供給でもあった。 (電力供給の局は定かでないが東京電燈第5電燈局(千束)が有力) エレベーターは8階までで、8階から10階は通常の階段、10階と11階は木製の螺旋階段だった。 エレベーターは開館の翌年、危険だということで、運転停止になった。 (現在でも「エレベーターの日」は浅草十二階が開業した11月10日。) 但し実際の開業日は11月11日。 *日本で2番目のエレベーター設置は日本銀行(明治29年)、3番目は三菱三号館(明治29年、英国グッド・オーチス・エレベーター会社製、水圧式)。 建物の構造は10階までが八角形の総レンガ造り、11階、12階は木造。 高さは公表約67メートル(220尺) (実測では52M40CM(173尺)) 建坪は三七坪半 11階には沖電機工場(後の沖電気)アーク灯2個(1000燭光)が吊ってあり、また同社の純金焼付けの風見のついた避雷針が設置され、1階から12階に電話線を設置、通話できるようにされていた。 (沖電機工場についての参考サイト) 開業当時の浅草十二階への交通
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![]() 「浅草十二階計画」の図版 ひょうたん池の向こうに聳える浅草十二階 |
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何処に? |
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| 浅草十二階は浅草千束2丁目38番地のあたり。 (現在の浅草二丁目十三番北隅) 昭和40.41年、住居表示制度の実施で、浅草千束2丁目は千束3丁目、浅草2.3.4.5丁目になりました。 浅草十二階が開館した当時、まだ浅草公園六区にはパノラマ館の周辺に常盤座、電気館、清明館(剣舞)、大黒館などがあるのみでした。 大正五年の浅草十二階、六区周辺の地図はここ(六区絵図)です。 大正十年の浅草十二階、六区周辺の地図はここです。 |
![]() 「浅草十二階計画」の図版 (下のキャプションも浅草十二階計画) 大正三年以降六年以前の十二階(石版絵葉書) すぐ左のサラセン風の丸屋根は遊楽館 そこから左に江川玉乗り大盛館(入母屋屋根) 江戸館(白い屋根)、キネマ倶楽部、東京倶楽部 |
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内部と周辺 |
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| 浅草公園の周辺はもともと浅草寺の境内であったが、東京府によって明治6年6月浅草公園に指定され官有地となる。 明治17年行政区画上7区に分割。
浅草十二階は千束だから当然、この区割りには入らない。 また浅草十二階より北の周辺は十二階下と称され、銘酒屋が軒を連ねる迷路のような街になった。 浅草十二階には、開館当初『二階から七階まで四六の商店があった。』(細馬 宏通 著『浅草十二階』より引用) 売られて物は、玩具、宝石、菓子、袋物、小間物等であったらしい。 また海外の物産も売られてもいたようだ。 また次のような館内のディスプレーの時期もあったとのこと。
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![]() 「浅草十二階計画」の図版 こんな写真が飾ってあったのかな? 実際は百美人は立ち姿だったそうです |
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経営状態 |
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| 浅草十二階は当時の最先端の塔なのに経営は苦しかったようだ。 経営者が転々と変わったという記述がある。 初代社長は江崎禮二。明治三〇年より萩野賢三、竹次郎等が歴任。 また後半では人々に飽きられ、塔を見物するというよりも下にある十二階演芸場が主目的になっていたようだ。 |
![]() 「浅草十二階計画」の図版 空飛ぶ鳥はカラスでなくとんびだそうです。 浅草にとんびが乱舞する時代があったのだ! |
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出発から崩壊まで |
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![]() 最新東京名所写真帖より 浅草常磐座隣の観覧車 後にこの敷地に浅草金竜館 |
塔の幻について
浅草十二階は奇妙な塔だ。東京の電灯開通からわずか2年で電動式エレベーターのある浅草十二階が浅草に聳え立った。
まだ鉄道馬車が浅草を走っていた時代である。
そして風俗街の中心、吉原と当時の飲食街や芝居小屋,妖しい見世物小屋が立ち並ぶ歓楽街である浅草の風に靡く、柳のような塔として登場していた。
でもその塔、浅草十二階は当時、日本で、高さ52Mと一番高層であり、かつ日本で始めて電動式エレベーターが登場する最新の塔だった。
しかし、塔という性格上、きわめて狭い内部空間であったことも明らかである。
「内側の直径は11メートル、建坪三七坪。」(『浅草十二階』より引用)。これに3畳敷きエレベーターが2台と階段部分が引かれるから、商店といっても「小さなキオスク程度」(『浅草十二階』より引用)あるいは縁日の露店程度のものだったのかもしれない。
塔という狭い平面のハードに限定されたソフトである商品は決して、現在のランドマークタワーや六本木ヒルズのように時代の最先端の商品を並べるわけにはいかなかったようだ。
当時の商業ビルとして日本一近代化されているかに見えた浅草十二階にある商品は、なにかそのハードとアンバランスな気がします。
これは塔ではないけれども、日露戦争の始まった1904年(明治37年)に出現する三越デパートとは対照的な建物の姿であるのかもしれない。
三越デパートは景色という外部との接触を絶ち、内部を飾り演出することで商品への購買欲をかきたたせる方向にいっている。唯一つ眺めのある屋上のスペースさえも遊具をならべることでお客の心理を商品からそらすことをしない。
(三越デパート室内写真、小川和眞著「日本風景風俗写真帖」より。)
浅草十二階への欲望はあくまで、はるか彼方まで見渡せる景色にあったようだ。
当時、眺めを所有したいという欲望は、現代のわれわれが考えてるより、はるかに大きかったのだろう。
それまでは、高い建物からの景色は、ほとんどが時の権力者か特別な人が独占していた。
城郭とか五重塔のように庶民にとっては見るだけの建築物であったのかもしれない。
そのような高いとこに登って景色を見る、あるいは登れるということ自体、嬉しかったにちがいない。
自分たちの街を近くから角度を変えてまるまる見る、あるいはめったに行くことのできない遠くの海や川などを見るという行為は本当にワクワクする世界だったのだろう。
しかし、景色を眺めるだけというのは、商品を所有する喜びとは全く違って、それによって、喜びが持続したり、生活が便利になったり、自分が周りの人と比べて一歩前進したりする感じはあまりないと思う。
あっても一時的なものだろう。
この景色を眺めるだけの世界はいつかブーメランのように自分自身の世界に帰ってくる。
その行き着く先は、飽きるか、江戸川乱歩の『押し絵と旅する男』のように実際の景色を錯覚することによって景色を
自分自身と心理的に共振させるしかないだろう。
ほとんどの人の場合は飽きるほうにいくに違いない。
これは現在のバーチャルなネット社会と少しは似てるとこがあるかもしれない。
もちろんネットの場合は商品という側面も多く、人との関係という要素も入るから、飽きる速度も遅いし、のめり方も中途半端なものかもしれないが。
しかし、商品というソフト面でその時代の最先端を走ることのなかった浅草十二階は、当時からすでに懐かしい、時代に取り残されたような風景を醸し出していたようだ。
そのためにか浅草十二階を愛してきた作家や詩人は決して少なくはなかった。
また、21世紀の現在でも滅びることのない魅力をその塔の幻影は漂わせ続けている。
浅草十二階は1923年のM7.9の烈震、関東大震災の前には当然のごとく崩壊した。
ちょうど浅草十二階が崩壊したころ、ニューヨーク摩天楼の歴史が始まる。
エンパイアーステートビルとクライスラービルは1960年代まで世界1,2を占める高さだった。
ニューヨーク摩天楼の洗練された建築技術と洗練された商業は第2次世界大戦にもびくともしなかった。
摩天楼はさらに洗練され、グローバル化という世界経済の不動の位置をも獲得していったかにみえた。
しかしその代表的なビル、世界貿易センタービルも、もろくも2001年11月に崩れ去った。
入場料金について
浅草十二階の入場料金は開業時は大人8銭、子供、軍人は半額、10年後の明治33年年には2銭値下げして6銭。
なにか子供とともに、軍人が半額ってのが面白い。いかにも明治って感じがする。
当時の入場券には次の宣伝コピー。
江湖の諸君、暇のある毎にこの高塔の雲の中に一日の快を得給え
(糸井さんだったらどんなコピーになるんだろ?(笑))。
また入り口には次の注意書きあり。
(1)ふうてん白痴と認むる人。
(2)酩酊者と認むる人。
(3)保護者なき、老幼の危険と認むる人。
(4)本閣において不都合と認むる人。
(5)此心得書を遵守せざる人。
当時の物価は大体、次のようなものであったらしい。
ビール1本=14銭(大壜)
朝日新聞購読料 28銭
もりそば=1銭2厘
天丼=3銭
理髪料金(大人)5銭
しょうゆ 9銭
日本酒(1升)14銭9厘
大工さん(東京)の日当 一日54銭
このなかではビール一本14銭というのが、現在の他の物価と比較して高すぎるように思えるが、ビールの生産が始まったばかりなので、まだ割高なのだろう。
浅草十二階の入場料金8銭といのは、この物価表から見てわかるように、それほど高からず、低からずというとこだろう。
現在の感覚でいけば、700円の天丼3杯分2000円前後というとこではないだろうか。
もっとも住み込み下男は食事つきでも、1月1円55銭、下女は1月82銭(男女間の賃金格差は随分大きかったんだな)だから、
そう簡単にはいける価格ではなかったと思われます。しかし絶対行けない価格ではないと思う。
ただ、行くためのフリーな時間があったかどうかは疑問ですけど。
まあ最先端のモダンな建物の入場料としては良心的な価格設定だ。
ちょっと無理すれば庶民でも簡単にいける浅草十二階だったのだろう。
なお当時の浅草公園の主な興行等の料金は次の通り。
| 大人 | 子供 | 立見 | |
| 花やしき | 三銭 | 一銭 | |
| 水族館 | 五銭 | 三銭 | |
| パノラマ館 | 十銭 | 五銭 | |
| 日本館 | 二銭五厘 | 一銭五厘 | |
| 玉乗り(青木一座) | 三銭 | 二銭 | |
| 常盤座 | 五銭 | 三銭 | |
| 玉乗り(江川一座) | 三銭 | 二銭 | |
| 遊魚釣り | 小魚 2尾 一銭 | 大 4尾 十銭 | 極大 4尾 20銭 |
十二階下の風景
浅草十二階の主な絵や写真は主に南東、あるいは西南の方角から描かれている。上の絵や写真もその方角からだ。
NET上では僕の探した限り十二階下から浅草十二階を見た風景はこの銘酒屋の女(高野英児画)だけだった。
当時、帝都東京の最大の繁華街であった浅草。その浅草のなかでも六区を中心とした、浅草公園といわれる場所はひょうたん池、日本パノラマ館、花やしきや多くの芝居小屋などが立ち並ぶ、賑やかで楽しい繁華街であったようだ。いや繁華街というイメージよりもむしろテーマパークであり明治のディズニーランドのような雰囲気の場所ではなかったのだろうか?。
噴水や人工の滝のあるひょうたん池までつくりあげ、六区全体を帝都東京の都市公園のモデルのような街にしたかったのかもしれない。
実際、ひょうたん池は防火帯としての機能も併せ持って建設されたようである。
浅草十二階はこの浅草六区の北の外れに建築された。ひょうたん池から、浅草十二階を望む風景は錦絵のように美しかったのだろう。
しかし、浅草十二階の北側には明治後期から大正時代にかけて十二階下と呼ばれる迷路のような路地が広がっていった。
浅草十二階は、魔窟といわれた十二階下と、当時の人々が気楽に遊ぶ繁華街、浅草との境目の塔でもあった。
浅草十二階から千束町、吉原にかけて一説によると、2000軒の銘酒屋が軒を連ねていたそうです。銘酒屋とは銘酒を置いてある居酒屋のことかなと思いましたが、実態は私娼窟とほぼ同様な意味らしい。私娼とは公娼と違い、いつでも警察の取り締まりの対象となる売春のことであり、公娼は手続きさえしっかりしていれば国から認可されていた売春である。そのため銘酒屋とは警察の取り締まりを避ける名称のようなものであったとのこと。
それにしても2000軒の銘酒屋とは!一つの店で2人の私娼が働いていたとしても、実に4000人の私娼が、この浅草十二階下周辺にはいたことになる。
この私娼の数には圧倒される。これが十二階下の風景である。
このように浅草の夜と昼の顔、というより帝都東京の明治以来、近代化をめざす顔とそれに取り残される顔、あるいは近代化による影の部分とのちょうどその境の橋に浅草十二階は立っていた。
といっても浅草十二階は明治、大正を通して、光を影と対立させるのでなく、優しく融和させていたようだ。
十二階下の私娼たちも、ひょうたん池や六区で遊んだし、当時、上流階級の社交場でもあった花やしきにいくような人も十二階下で遊んでいた。
十二階下から浅草十二階を眺めた作家は多かったようだ。
「僕は浅草千束町に、まだ私娼が多かったころの夜の景色をおぼえている。それは、窓ごとに投影のさした、十二階の聳えているために、殆ど荘厳な気のするものだった」(昭和2年)『本所両国』より芥川竜之介。
「歩いて行きながら一つの路地から次の路地へ入った途端、びっくりするほど間近く黒々とした十二階が覆い被さるように立っていたりする。まったく何処を歩いているのか見当がつかない。」『吉原哀歌』今東光。ここに当時の十二階下の模様が詳しく出ています。
小さい道の両側にはかの有名な淫売屋の軒灯がずらりと並んでいた。その後ろに、その屋根を超えて、かの怪しき十二階の塔は亡霊の如く黒く、−−−−星なく荒涼たる夜天のうちに聳えていたのが見えた。『浅草公園』木下杢太郎(岩波現代文庫 「浅草」より)
浅草十二階を十二階下から見た芥川竜之介や今東光や木下杢太郎は浅草十二階を、神聖な塔あるいは霊的な塔として見ていたのではなかろうか。
そこには浅草六区からひょうたん池の向こうに見える美しく華やいだ、近代的な消費宣伝の塔とは、また違った塔の姿だったのだろう。
またNET上で次のようなテロリストと私娼の悲しい物語を正津勉さんのサイトで見つけました。
私娼窟の女、堀口直江についての作である次の歌は十二階下の神聖な塔への歌ともいえるかもしれない。
「あたいだつて本を読むよ」と投げ出しぬ霞お千代が出刃をかざす絵
(なおこの間の経過は江口渙の次の文章に詳しく載っています。)
十二階下は関東大震災の浅草十二階の崩壊とともに滅んだ。
(焼け跡の向うに浅草十二階が見える。鬼気迫る写真だ 1 2 3 4)
私娼を取り締まる当局は次のように私娼窟十二階下を説明した。
「こうして大いに東京市内の風紀を改善するのです。彼等がもし醜業を営んだことがわかれば、一月近く拘留した上に写真を撮って、二度と再び営業出来ないようにするのです。元来浅草区はこれ等醜業婦のために拭うべからざる汚名を受けているのです。浅草区役所の収入の大部分は彼等醜業婦が持っているのだとか、浅草に来る警官はみんな彼等から袖の下を貰ってぜいたく[#「ぜいたく」に傍点]をしているとか、浅草区から立つ候補者は醜業を理解しなければ立つ資格が無いとか云われていたものですが、そんな世間の誤解を一掃するには昨年の震火災が絶好の機会でした」『街頭から見た新東京の裏面』
(夢野久作が九州福岡から震災一年後の東京を見にきた印象が『街頭から見た新東京の裏面』。「青空文庫」にあります。
「東京人の堕落時代」もあります。面白いからお奨めだよ!)
そう、関東大震災による浅草十二階の崩壊と十二階下の壊滅は当局者のいう絶好の機会になった!
十二階下の私娼窟は墨田区の玉の井へ、そして繁華街としての中心も銀座へ。
銀座と玉の井。距離が離れただけでなく、人々の心も変わったのだ。
玉の井では、もう巨大な塔の幻を見ることはできなかった。
そして銀座には私娼窟、銀座下はやってこなかった。
すでに昭和という時代が始まっていたのだ。
浅草十二階上空からの風景
NETを探索していて、こんなな写真があった。浅草十二階を上空から撮った写真です。
飛行機から撮ったのか、あるいは飛行船からなのか?
このサイトでは何時、誰がどういう方法で撮ったかは書いていない。
(この写真は大正11年の航空写真と判明しました、なお十二階を上空から撮った写真は他に震災直後に撮影された
航空写真があります)
浅草十二階からの眺めでは、当時すでに煙突から煙が随分でていたんだな。
浅草十二階の写真はここから進行してください。
またこの航空写真をクリックすればいろんな風景がみれます。
浅草十二階と「世界の建造物 高さ比べ」
こっちでも紹介したけど「伊東忠太を知っていますか」鈴木博之 編著 王国社 を読む。
そのなかで伊東忠太が作成したという古今の建築物による「世界の建造物 高さ比べ」横手義洋というのがありました。
世界中の建造物の高さを比較した図面。最初伊東忠太によって作成されたが、のちに岸田日出刀によって
内容が更新された。
これは厳密な高層建築ランキングではないそうです。
また作成された時代は伊東忠太が作成した部分は1920年代初頭まで、岸田日出刀による更新は1931年12月
までとのこと。
この「世界の建造物 高さ比べ」によると、何故か浅草十二階の名前がない。
伊東忠太は必ずしも建築の実用性や当時のモダンを追及した建築家でなく、思想的には浅草十二階を排除するような
建築家ではないと思うのだが、ちょっと不思議な感じがした。
(伊東忠太は工科大学では十二階設計のバルトンの授業を受けていたのにね(笑))
この「世界の建造物 高さ比べ」に浅草十二階を付け加えてみると、実測値の高さでは東大寺大仏殿と同じ、
ピサの斜塔と約3Mの違い。
浅草十二階の公表値ではノートルダム大聖堂と1Mの違いなどと、いろいろ面白かった。
「伊東忠太を知っていますか」鈴木博之 編著 王国社 (世界の建造物 高さ比べ)横手義洋 より引用
| 建造物の名称 | 高さ(メートル) | ||
| 1 | エンパイア・ステート・ビルディング | ニューヨーク | 379 |
| 2 | クライスラー・ビルディング | ニューヨーク | 317 |
| 3 | エッフェル塔 | パリ | 300 |
| 4 | マンハッタン・トラスト銀行 | ニューヨーク | 281 |
| 5 | ウールワース・ビルディング | ニューヨーク | 232 |
| 6 | リンカーン・ビルディング | ニューヨーク | 204 |
| 7 | 原ノ町無線塔 | 原ノ町 | 200 |
| 8 | メトロポリタン・タワー | ニューヨーク | 199 |
| 9 | ニューヨーク生命保険タワー | ニューヨーク | 188 |
| 10 | ワシントン・モニュメント | ワシントン | 168 |
| 11 | ケルン大聖堂 | ケルン | 152 |
| 12 | ルーアン大聖堂 | ルーアン | 151 |
| 13 | ザンクト・シュテファン教会 | ウィーン | 139 |
| 14 | サン・ピエトロ大聖堂 | ローマ | 138 |
| 15 | アントワープ大聖堂 | アントワープ | 130 |
| 16 | アミアン大聖堂 | アミアン | 128 |
| 17 | レーゲンスブルク大聖堂 | レーゲンスブルク | 126 |
| 18 | ブルゴス大聖堂 | ブルゴス | 109 |
| 19 | セント・ポール大聖堂 | ロンドン | 109 |
| 20 | アンヴァリッドのドーム | パリ | 104 |
| 21 | 東大寺七重の塔(現存せず) | 奈良 | 97 |
| 22 | アメリカ合衆国議事堂 | ワシントン | 87 |
| 23 | ランス大聖堂 | ランス | 81 |
| 24 | パンテオン | パリ | 79 |
| 25 | ティアティーナー教会 | ミュンヘン | 78 |
| 26 | タージマハル | アグラ | 70 |
| 27 | ノートルダム大聖堂 | パリ | 66 |
| 28 | ロンドン大火記念碑 | ロンドン | 61 |
| 29 | ハギア・ソフィア | コンスタンティノーブル | 58 |
| 30 | 斜塔 | ピザ大聖堂 | 55 |
| 31 | 東大寺大仏殿 | 奈良 | 52 |
| 32 | 名古屋城天守閣 | 名古屋 | 49 |
| 33 | コロッセウム | ローマ | 49 |
| 34 | ローマ水道橋 | ニーム | 47 |
| 35 | パンテオン | ローマ | 47 |
| 36 | エトワール凱旋門 | パリ | 46 |
| 37 | 自由の女神 | ニューヨーク | 46 |
| 38 | 無線塔 | 東京帝国大学 | 45 |
| 39 | トラヤヌスの円柱 | ローマ | 44 |
| 40 | 法隆寺五重塔 | 奈良 | 33 |
| 41 | 東京海上ビルディング | 東京 | 30 |
| 42 | パンテノン神殿 | アテネ | 22 |
| 43 | 「アクロン」(アメリカ飛行船) | 239 | |
| 44 | 「ブレーメン」(ドイツ蒸気船) | 284 | |
| 45 | 「フッド」(イギリス戦艦) | 261 | |
| 46 | クフ王のピラミッド | ギザ | 137 |
| 47 | カフラ王のピラミッド | ギザ | 126 |
塔の幻と鳥の影
凌雲閣錦絵双六は面白いです。細馬先生も著書「浅草十二階」でシャガールの絵のようだと書かれています。
とってもファンタジーに富んだ幻想的な図絵だと思います。
これは風船乗りスペンサーが1890年(明治23年11月21日)、上野公園で風船飛び降りを演技したのを、浅草十二階と合体して描かれた
図絵です。上野と浅草は2KM位は離れていますから、このように一枚の絵の中にリアルに納まるかどうかは疑問ですけど、浅草十二階
とスペンサーの風船飛び降りの一体化図絵はとてもぴったりします。
まだライト兄弟の飛行機も出来ていない時代、スペンサーは上空高く風船という気球で登り、そこから落下傘で飛び降りたのです。
そして地上、数百尺(150M?)のところで広告をばら撒いたのだそうです。
このときの有様は朝野新聞に次の記述があります。
「あたかも群鴉の紛飛せしごとき有様なりし気球は、見る内に数十尺の高度に達し、その人の影は小豆ほどに見受けたり。」
20世紀の到来を予感させる、高い塔と空中での人間の飛行そして広告の散布の世界は明治の人々に大きな夢ともうすぐそこに
手の届く20世紀が近づきつつあったことを印象づけたことでしょう。
しかしここにある夢のような塔と風船のりスペンサーの世界に注がれた目は明らかに現実の20世紀のその姿とは違っていた。
これは現在の視点からいえることなのだと思いますけど、どこかで明治の人の夢のような未来と20世紀の現実がすれ違っていった
ようにも思えます。
風船乗りスペンサーと塔の姿はどこか、上の図絵にある浅草十二階の周辺に乱舞するとんびの姿を連想させます。
まるで未来という鳥の影が人々の視界をよぎったようなまれな瞬間だったのでしょう。
しかし現実には鳥の影ではなくボーイングであり、ツインタワーや電通の影だったのかもしれません。
中原中也は有名な詩、サーカスのなかで「落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアと」という言葉を使っています。
これは僕の妄想かもしれませんけど、「風船乗りスペンサー」のことをいってるようにも思えます。
もちろん中原中也がリアルで「風船乗りスペンサー」を見たということは年代からいってもありませんけど。
だれかお年寄りから田舎で聞いたとか、また上の双六のようなものを見たということは多いにありえます。
もしそうだとした、「風船乗りスペンサー」の世界は昭和初頭の中原中也の目にはすでに、「幾時代かがありまして・・・」
の世界になっていたのだろう。
番外 BGMについて
BGMをいれました。ある曲を探しているとき偶然みつけました。
解説によると、かって学生運動でよく歌われていた曲だそうです。
またスペイン戦争でも歌われたとの説があります。
曲名は「第七旅団の歌」です。
暗さと明るさの入り混じった単調さがなんともいえません。
浅草十二階のテーマにはぴったりだと思いました。
(まあHPにBGM流すのは超悪趣味といわれるみたいですけどね(笑))
歌詞は次のとおりだそうです。
俺〈オイ〉らの生れはここではないが
俺らの胸はともに高鳴る
頭の上にはおんなじ旗だ
容赦なく、またつねに容赦求めず
俺らは戦うために来たのだ
第七旅団のゆくところ
ファシストは滅ぶ
第七旅団のゆくところ
ファシストは滅ぶ
進め! 進め!
妻と老〈オイ〉とを家に残して
世界の果てから集まり来〈コ〉しは
一歩も退却するためならず
俺らの数は少いけれど
死人〈シビト〉も俺らと一緒に進む。
第七旅団のゆくところ
ファシストは滅ぶ
第七旅団のゆくところ
ファシストは滅ぶ
進め! 進め!
過激な歌でしょ。
もし、うるさかったらBGMをきってください。
またもちろん無断で使用しています。
もしこんなサイトにこんな崇高な歌、使用してけしからん!という人あればいってください。
すぐに削除いたします。
塔の幻と鳥の影 2
中原中也の「サーカス」が気になって再度考えてみました。
広辞苑によると奴(め)という言葉は
1 「その法師奴(め)」とか「畜生奴(め)」とか、ものの名に添えて、見下げていう語。
2 「「この家の主人奴(め)にござりまする。私奴(め)のように自分または自分の側のものの名に添えて謙遜の意を表す。
となっている。
よくいわれてる落下傘奴(らくかがさめ)をサーカスのテント小屋と解釈するには少し無理があるように思える。
これはテント小屋が落下傘を伏せたかたちに似ているからという説である。
もちろん擬人化された使い方はあるかもしれないが。
ただ擬人化する場合でもサーカスのテント小屋というのはちょっと妙に感じます。
それにサーカスの情景を描いていて、最後に落下傘奴(=テント小屋奴)のノスタルジアといってしまうのは、あまりに詩にしては説明的にすぎないだろうかという疑問です。
むしろブランコ乗りを例えているように思える。揺れた「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」という言葉はこのブランコ乗りの世界だ。
しかし落下傘奴(らくかがさめ)のノスタルヂアという言葉は同時にブランコ乗りを例えた、落下傘奴(らくかがさめ)がいたことになるのではないだろうか。
「サーカス」の詩はサーカス小屋のなかと外を、サーカス小屋の時代と過ぎ去った時代をダブルイメージさせている作品だと思う。
そしてもし、落下傘奴(らくかがさめ)という言葉が、かって歌舞伎や錦絵で大評判だったスペンサーの風船飛び降りのことをいっているなら、この詩はテント小屋の内部と外部、時代の落差を、落下傘奴(らくかがさめ)という言葉で一挙に通底させることになる。
つまりサーカスのブランコ乗りとスペンサーの風船飛び降りに光がそそがれることになる。
明治23年11月21日:朝野新聞
風船乗りの景況 かねて評判のスペンサー氏の風船乗りは、昨二十四日、上野公園博物館内に於いてその技を演じたり。
午後一時前後より上野を指して出掛けし人おびただしく、同二時前後は東照宮全竹の台より旧博覧会場内は立錐の地なきほどにて、もはや一歩も進むことあたわず、人波を打つほどなりし。
この風船乗りの真昼の群集の賑やかさと、夜のサーカスの寂しいブランコ乗りの姿は詩の時間と空間をあっという間に広げると思うのだが。
参考(青空文庫より)
サーカス
幾時代かがありまして
茶色い戦争ありました
幾時代かがありまして
冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして
今夜此処(ここ)での一(ひ)と殷盛(さか)り
今夜此処での一と殷盛り
サーカス小屋は高い梁(はり)
そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ
頭倒(さか)さに手を垂れて
汚れ木綿の屋蓋(やね)のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
それの近くの白い灯が
安値(やす)いリボンと息を吐き
観客様はみな鰯
咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
屋外(やぐわい)は真ッ闇(くら) 闇(くら)の闇(くら)
夜は刧々(こふこふ)と更けまする
落下傘奴(らくかがさめ)のノスタルヂアと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
同じく、奴(め)という言葉を使った中原中也の作品
在りし日の歌より
雲 雀
ひねもす空で鳴りますは
あゝ 電線だ、電線だ
ひねもす空で啼きますは
あゝ 雲の子だ、雲雀奴(ひばりめ)だ
碧(あーを)い 碧(あーを)い空の中
ぐるぐるぐると 潜(もぐ)りこみ
ピーチクチクと啼きますは
あゝ 雲の子だ、雲雀奴だ
歩いてゆくのは菜の花畑
地平の方へ、地平の方へ
歩いてゆくのはあの山この山
あーをい あーをい空の下
眠つてゐるのは、菜の花畑に
菜の花畑に、眠つてゐるのは
菜の花畑で風に吹かれて
眠つてゐるのは赤ン坊だ?
浅草十二階と日本パノラマ館
日本パノラマ館は浅草十二階開場より6ヶ月早く、1890年5月に浅草公園六区四号地に完成した。
設計は京都市の山県有朋の別荘、農商務省、東京勧業博覧会外国製品館等を設計した新家孝正。
白ペンキ塗りの16角形の建物。周囲は約145M、高さ約18M。
出資者は大倉喜八郎、渋沢栄一、安田善次郎ほか22名である。
地元浅草の金持ちが出資者となった浅草十二階とは違い、明治のそうそうたる財界人が出資者となっている。
これだけパノラマ館は当時の財界人からの期待が大きかったのだろう。
浅草六区の興行としては異例の力の入れようである。
当初こそジョセフバートランド、サルヂエンドの描いた南北戦争のパノラマであったが、日清戦争が始まると、
すぐ翌年には日清戦争パノラマに切り替えた。
日清戦争は当然、当時の新聞、雑誌等に大々的に報道がされ、また学校でもその戦況は詳しく教えられていただろうから、すでに人々の間では日清戦争について多くのことを知られており、また物語化されつつあったのだろう。
そのような時期に、日清戦争という戦争を娯楽としてのパノラマの題材に選んだのである。
画家は当時、大きな勢力であった日本画家ではなく、日清戦争を直接現地で見学した、小山正太郎画伯を中心とした洋画家たちであった。
このパノラマの作成に関しては、日清戦争を直接戦った軍隊の将校による、強いサポートもあったらしい。
また画家たちも、みな軍服を着てこの作成作業をしたというから、当時の小山画伯を中心とした洋画家達の強い意気込みが感じられる。
パノラマの題材であった、日清戦争旅順口攻撃の図ではその激戦の模様を午前9時から11時半までの2時間半の
時間的要素も取り入れられていた。
もちろん映画のように絵が動くというものではなく、見る人が視線を動かすことによって時間の経過が追えたはずである。
観覧台の位置は激戦があった戦場を見渡せ、かつそこがすでに戦場でもあった高地が選ばれた。
したがって観客は暗い床下廊下を潜り抜け突然、観覧台という戦場の真っ只中に送り込まれ、日清戦争という、
つい一年前にあった自国の戦争にバーチャルに参加することになる。
それも大勢の人と一緒に観覧してたわけだから、パノラマ館の観客のどよめきが聞こえてきそうである。
しかし、パノラマ館の閉館は意外と早く、1910年である。
浅草に電気館等の活動写真館が出てきて、より自然にリアルさを強調できる映画というメディアが誕生したことが大きな原因のようだ。
浅草十二階はさらにパノラマ館廃館より13年間、生き延びたことになる。
塔の幻と江戸川乱歩著『押絵と旅する男』
『押絵と旅する男』は、その蜘蛛の巣のようなからみつく素晴らしい表現と比較して、その狂気の質という点ではなにか物足りない。
それは多分、その狂気に成長がなく、閉じこもった狂気がそこにはゴロンとしているせいだと思う。
したがって、弟は兄の狂気を深く考えることなく理解してしまう。そして私も弟の存在に共感していく。
兄の世界は周りから次々と解釈を呼び込む構造になっている。
あたかもワイドショーに登場する犯罪者でもあるかのように。
何故、江戸川乱歩が成長する狂気の世界を描けなかったかは、この『押絵と旅する男』の構造にあるのだろう。
浅草十二階という塔の見晴らしの廊下から、兄は覗きからくり屋のお七が吉三にしなだれかかっている押し絵を見ていたのである。
塔の見晴らしという東京中を見渡せる場所から、覗きからくり屋という見られるだけの世界を見ていた。
この視線は一方的で狂気の入り込む余地はない。
(もしこの視線を狂気だとしたら、昭和へと続く近代化していく時代そのものの狂気といえるかもしれないけど・・・・・。)
しかし、兄は双眼鏡のレンズを通して見ていたため、それが生きた女と錯覚した。
錯覚が出発点になった狂気なのである。これは塔から外部を見ていたのでなく、自分自身を見ていただけなのではないだろうか?。
あるいは自分の視線を見ていたといえるかもしれない。
またそうさせる魔力が浅草十二階にあったのだろう。浅草十二階の見晴し廊下という特権化された見る場所という魔力に兄は
自分自身の視線もダブらせてしまったのではないだろうか。
兄自身から一歩も出ることのできない錯覚という狂気は兄の中でのみ完結してしまう。
十二階から世界を見続けていた兄がいつか他人から見られ、解釈され続ける存在になってしまう。
この浅草十二階の魔力については江戸川乱歩も詳しく表現している。
浅草十二階の見晴らし廊下からの文章では、
兄のうしろに立っていますと、見えるものは空ばかりで、モヤモヤした、むら雲のなかに、兄のほっそりとした洋服姿が絵のように浮き上がって、むら雲の方で動いているのを、兄のからだが宙に漂うかと見誤まるばかりでございましたが、そこへ、突然花火でも打ち上げたように、白っぼい大空の中を、赤や青や紫の無数の玉が、先を争って、フワリフワリと昇って行ったのでございます。お話ししたのではわかりますまいが、ほんとうに絵のようで、また何かの前兆のようで、私はなんとも言えない妖しい気持になったものでした。なんであろうと、急いで下をのぞいてみますと、どうかしたはずみで、風船屋が粗相をして、ゴム風船を一度に空へ飛ばしたものとわかりましたが、その時分は、ゴム風船そのものが、今よりはずっと珍らしゅうござんしたから、正体がわかっても、私はまだ妙な気持がしておりましたものですよ。
弟もゴム風船の正体がわかっても妙な気持ちを連続させている。
この妙な気持ちにさせる場が浅草十二階という塔なのだろう。
これはちょっとオカルトチックないいかたかもしれないけど、塔が人間であるとすると、目は浅草十二階の見晴台の兄になる。
塔の眼である兄の背後には時代を呼吸する浅草十二階という塔の肉体があったといえるかもしれない。
これから先は『押絵と旅する男』の読み方としては反則技であるかもしれません。僕の好みで読み方を捻じ曲げてみました(笑)。
この小説の主役はすでに兄でも弟でも私でもなく浅草十二階なのではないだろうか。
”東京中どこからでも、その赤いお化けが見られたものです。”
浅草十二階は見る場所であると同時に見られる場所でもあった。
これは当然、兄の見ていた覗きからくりのお七からも浅草十二階が見えていたことになる。
兄が覗きからくりの絵のなかに入ったのだから、お七にも視線があって不思議ではない。
ちょうど、お七は兄のもつ双眼鏡を逆さに見ていたことになる。
お七は吉三との命がけの恋を成就したかった。
そのためには浅草十二階という東京中を見渡せる世界からの視線が欲しかった。
お七は兄を誘惑した。ただ浅草十二階という世界からの視線が欲しいがために。
『膝でつっつらついて、眼で知らせ』という変な節廻しが、耳についているようでございます。
というのはお七と吉三の間での合図ではなかったのだろうか?浅草十二階からの兄の視線を誘惑するための。
新しがり屋の兄は自分が絵の中に入れば当然お七と良い仲になれると思っていた。
兄は結局、自分しか見ていなかったから。
お七と吉三との命がけの恋など兄の眼中にはなかった。
絵の中に入った兄は初めて気づいた。
お七はちっとも年を取らないのに、自分はどんどん年をとっていく。
やがて死ぬだろう。そして再び吉三がお七のそばにくるだろうということを。
このため、絵の中に入った兄は
”相手の娘はいつまでも若くて美しいのに、自分ばかりが汚なく老い込んで行くのですもの。恐ろしいことです。兄は悲しげな顔をしております。数年以前から、いつもあんな苦しそうな顔をしております。”
ということなのだろう。
この場合、浅草十二階はお七にとっては聖なる塔であった。しかし兄にとっては魔の塔だったということになる。
*こういう読み方をしていくと、押し絵をもって、お七と兄の新婚旅行までさせた兄思いの弟や、弟の世界に入り込んだ私も狂言まわしに過ぎない喜劇役者になってしまいますけど・・・・。
江戸川乱歩のファンのみなさんごめんなさい。
*そして僕の文章は論理が混乱している。覗きからくり屋を見られるだけの世界と書いて、それなのに覗きからくり屋のなかから、お七が見返すというのは論理矛盾だ。でも僕はなにかこの矛盾を捨てたくない(なにをいってるんでしょうワレは(汗)。
『押絵と旅する男』全文はここで読めます。